牧者の罪

あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。

旧約聖書『民数記』20章12節

 神様は正しい?

 聖書には、すぐに納得して了解できることばかりが書かれているのではありません。なぜだろう、どうしてだろうという疑問がいつまでも心に残ることがあるのです。

 たとえば「メリバの水」という事件の中で、神様がモーセとアロンを罪に定め、二人が約束の地に入れるこの許されない人間に数られたということは、私にとって、なかななか素直に納得のいかぬ聖書箇所の一つです。

 モーセとアロンの罪は何か

 約束の地を目指して荒れ野を旅していたイスラエルの民は、飲み水がないということで指導者モーセとアロンに逆らいました。そこで、モーセとアロンが神様に祈ると、神様は「共同体を集め、岩に命じて水を出しなさい」と答えて下さるのです。モーセとアロンは命じられた通り、共同体を岩の前に集め、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と言い、手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出ました。

 ところが、その後、神様はモーセとアロンに向かって「あなたたは私を信じることをせず、わたしの聖なることを示さなかった」とお怒りになりました。いったい、モーセとアロンの罪は何だったのでしょうか。

■ 神の聖なることを示さなかった

 一つには「岩に命じなさい」と言われたのに、モーセは「岩を杖で打った」ということが指摘されます。それは、彼が御言葉の権威ではなく、杖の力を信頼してしまったからだとも考えられます。

 それも答えを解く鍵となるでしょうが、答えのすべてではないように思えるのです。なぜ、これまで忠実で、謙遜に従ってきたモーセが、こんな単純な命令違反をしてしまったのでしょうか。その罪の根っこはどこにあったのでしょうか。モーセに、サタンが付け入った隙は何だったのでしょうか。

 私は、「反逆する者たちよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さなければならないのか」というモーセの言葉がとても気になるのです。これは、度重なる民の反逆に疲れ果て、民に対する嫌気がさしたんじゃないかとも感じられる言葉です。今までのモーセとちょっと違うのです。

 「あなたは、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と、神様はモーセに言われます。神様の聖とは、罪人をも清めて、御自分のものとして所有しようとする神の愛のことです。それをモーセは、信じ切ることができなくなってしまった。信じ続けることに疲れ果ててしまった。「もう、こんな民につきあうのは嫌だ」と思ってしまった。「わたしの聖なることを示さなかった」というのは、そういうことではないかと思わされるのです。

 私は牧者のはしくれとして、偉大な牧者モーセに同情します。しかし、同時に、神の民の牧者たる者に対する神様の厳しさというものを恐れざるを得ません。「あなたは、この会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」牧者というのは、神の民に対する神様の熱心さを失ってはならないのです。それを失ったら、牧者としての務めを果たせなくなってしまうのです。

 謙遜になろう

 この箇所は、私にとって、今なお、神様の御心を悟り得ないところでもあります。しかし、今回、このような一つの悔い改めを与えられました。モーセのような大牧者でさえ、罪に定める厳しい神様です。私が、罪を免れているはずがありません。それでもなお、私を用いようとされる神様の御心を知り、いよいよ謙遜に歩まなければと思わされるのです。
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