■ 私たちはサタンの囚人か
聖書は、イエス様によってこよなき神の愛、全能の神の力、溢れるばかりの希望が、あますことなく私たちに注がれていると、断言しています。
それなのに、私たちが死刑を宣告された罪人のように絶望していたり、父に見捨てられた孤児のように霊的な飢え渇きに悩んでいたり、サタンの囚人であるかのように悪しき力の促すままに暮らしているのは、いったいどうしたことなのでしょうか?
■ 御言葉の教えと自分の経験はどちらが正しいか
確かに、そのような「私」がいました。しかし、洗礼を受けた私たちは、新しく生まれ変わったはずではないでしょうか。神さまが約束してくださった素晴らしい賜物を、生き生きと受け取りながら生きることができるはずではないでしょうか。
つまり、聖書の教えている真理と、私たちの実際の経験があまりにもかけ離れているのです。
私たちは、聖書のみ言葉よりも、自分の経験を信じてしまう傾向があります。聖書が、私たちにどんなに素晴らしい賜物や力を約束していても、それが実際に自分のものであるということを信じようとしないのです。
しかし、私たちの経験というのは、しばしば間違った認識に基づくものです。出来るのに、出来ないと思いこんでいたり、与えられているのに与えられていないと思いこんでいたりするのです。
■ 私たちは神の子
ですから、パウロは、「あなたがたは、本当はどんなに豊かで、力に満ちた神の子であるかということを悟るように」と祈っているのです。
ちょうど、みにくいあひるの子が、実は白鳥の子であったように、私たちも、死刑囚でもなく、孤児でもなく、サタンの奴隷でもなく、実は神の子なのです。それが真理なのです。
ですから、私たちはそのように考え、そのように暮らすべきではないでしょうか。
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