良心の痛みと十字架の痛み

たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪を償ういけにえです。

新約聖書『ヨハネの手紙1』2章1-2節

 罪の赦しは救いの基礎

 罪の赦しは、救いの基礎です。これが信じられなければ、私たちの信仰全体が成長することはありません。また、もし信じられなくなってしまったとしたら、信仰全体がまったくぐらついてしまうのです。

 しかし、私たちはしばしばこのような危なっかしい状態に陥ってしまいます。その結果、信仰生活は賛美や感謝の生活ではなく、恐れと後悔の念にさいなまされる生活になってしまうのです。

 
 良心の痛みと十字架の痛み

 なぜでしょうか? 多くの場合、私たちが罪の赦しを疑い出してしまう原因は、良心の痛みを、イエス様の十字架の痛みより重要であると考えてしまうことにあるのではないでしょうか。

 
 ハナ・ホイットル・スミスという人の文章を紹介しましょう。
 
 「私たちはとかく考えがちです。―罪を犯した後に、時をうつさず神の赦しを求めるなんて図々しすぎると。まずしばらく罪の結果の苦しみを忍び、良心の告発に堪えるべきではないだろうか。主が私たちを彼との愛の交わりにただちに入れて下さるなんて、ほとんど信じることができないのです。
 一人の小さな女の子があるとき、子供らしく率直に、こうした気持ちを語りました。

 「イエス様はあたしたちがお願いすれば、いつでもすぐに赦してくださるの?」
 「もちろんよ」
 「そんなにすぐ?」
 「そうですとも。おねがいすればすぐ赦してくださるのよ」
 「あたし、それ、違うと思うの。まずあたしたちが何日か、後悔してからじゃないかしら。それから何度も何度もお願いして、お願いの仕方がよかったら、赦してくださるんじゃない? すぐ赦してくださるなんて、あたし、信じない…いくら聖書にそう書いてあったって」
 
 たいていのクリスチャンはこの女の子のように考えています。つまり、そうした落胆と後悔のせいで、罪そのものによるより、もっと神さまから遠ざかってしまうのです」

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