■ タフな生命力
信仰生活とは、希望に向かって歩く生命力です。沙漠のように生きることを拒むような世知辛い浮き世でありますが、その中を歩み続けるタフな生命力を持つということに信仰生活の醍醐味があるのです。
■ 信仰の病
しかし信仰が病んでしまうということがあります。聖書も読む。祈りもする。礼拝も守っている。願いもある。しかし、その歩む力がないのです。それはちょうど、ベトザタの池のほとりにいた病人が、癒されることを願いつつその池のほとりに38年間も身を横たえながら、心の底では「自分には池に入る力がない。誰も自分を池に入れてくれる者がいない。私は癒されない」と、絶望していたように・・・。
■ 横たわっているだけの信仰
あなたは、来る日も来る日も、身を横たえて、祝福の泉を眺めるだけの霊的無力な信仰者になっていないでしょうか。イエス様はあなたに問うておられます。「なぜ、見ているだけで、それを実際に手に入れようとしないのですか。」、「なぜ信じていながら、希望に向かって歩まないのですか。」、「あなたは本当にそれを手に入れたいのですか。」
その時、あなたは「主よ、それは不可能です。私は歩くことができません。その私を助けてくれる者もいません」と、力なく答える者になっていないでしょうか。横たわっているだけ歩く力がないということは、信仰の病の証拠なのです。
■ 思いがけない力
そのような私たちに、なお「あなたは治りたいのか」と近づいてくださる方がイエス様です。イエス様は、「あなたにできなくても、他の誰にもできなくても、私にはできる」という頼もしいお心をもって、私たちに「治りたいのか」と呼びかけてくださるのです。
どうか、その声を聞いて、イエス様に対する無限の、そして絶えざる信頼を呼び覚ましたいと願います。
イエス様ならできる。
イエス様は、私の力となり、私の命となって起きあがらせ、歩かせてくださる。
そのような信仰をもって、一瞬一瞬を「イエス様!、私の膝に力を与えてください。イエス様! 私のくるぶしに力を与えてください。イエス様! どうぞ、一歩を踏み出させてください」と、徹頭徹尾、イエス様にお頼りして、立ちがあり、歩こうとするとき、私達は思いがけないような力、すなわちイエス様の力が、私達の内の力となって溢れてくるのとを知るでしょう。
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