キリスト者の完全

わたしは完全な道を歩いてきました。
主に信頼して、よろめいたことはありません。

『詩編』26編1節

 クリスチャンの悩み

 イエス様は言われました。

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(『マタイによる福音書』5章48節)

 私達は何をしても罪を免れ得ないということを体験したからこそ、キリストの救いを求めクリスチャンになったのでした。ところが、クリスチャンになった途端、あなたは完全でなければならないと言われてしまう・・・これはどんなクリスチャンにとっても深き悩みの種となるところでありましょう。

 聖なる人々

 私もこの悩みを解決するのにはずいぶんと悩み、時間がかかりましたが、一つの書物が、私によい導きを与えてくれました。それは、フォーサイスの『キリスト者の完全』という本です。

 「もっとも聖い人びとは、じぶんの聖いことを感じたりしようとしなかったからこそ、聖かったのである。かれらの神聖さは、かれの神聖を拝することから、無意識に生じたのである。すべてのものは、かれらの聖さを見たが、かれら自身は、それを見なかった。眼が顔の美であるのは、それが他のいっさいを見るが、じぶん自身を見ることをしないがゆえである。おのれの美についての自意識があらわれてくると、眼の魅力は曇る」

 自分の罪深さを知り、それがゆえに常に深い悔い改めの心をもって、キリストの御救いを仰ぎ、ただそれだけを拝すること、それが信仰です。このようにキリストを仰ぎ続ける人は、キリストがその人のうちに映し出されるようになり、人々はその人を聖人と見なすようになります。

 キリスト者の完全

 しかし、もし、その聖人が少しでも自分の聖さに眼を向けるようになりますと、その途端に自己満足に陥り、彼はキリストによって満たされている満足から離れ、キリストの聖さを失ってしまうのだというのです。

 「完全とは、無罪ということではない。新約聖書の『完全なる』ものとは、あきらかに、罪なき者のことではない。そして、神はわれわれの完全ならんことを欲したもうとはいえ、この世におけるわれわれについての神の目的は、無罪ということではない。神が目ざすところは、信仰をとおしてのわれわれとの交わりである。」

 罪がないという意味の完全さではなく、救い主との何の破れもない交わりに生きること、それが神様の求めて折られる完全であるというのです。

 それならば、「罪がない」ということではなく「われは罪人の頭なり」という意識こそが、私達を完全にすると言えるのです。

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