幸せになる方法

命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、・・・ 

『ペトロの手紙1』3章10節

「幸せな一日」ではなく

 苦難の人生を生きている人も、「今日は本当にいい日だったなあ」と思える日が一日もないわけではないでしょう。しかし、そのような「幸せな一日」は、すぐに大きな苦難の日々にのみ込まれてしまうのです。

 私達が望んでいるのは、そんな風にあぶくのように結んではすぐに消えてしまうような儚い幸せではなく、「幸せな日々」です。毎日の幸せ、終わることのない幸せです。

 けれども、ある人たちは言うでしょう。「人生には苦難がつきもの。それがまったくなくなるなっていうのは夢物語である」と。

 「幸せ」を数える生き方

 そういう人たちはきっと「幸せ」を数える生き方をしているに違いありません。

 「まったくつまらぬことがもとで、あたら一日を台なしにしてしまうことがある。たとえば、履いている靴がきつくて痛い。そんな時はもう何をやってもおもしろくない」(アラン、『幸福論』)。

 ところが、足もとを気にしていたために1,000円を拾った。すると、足が痛いという不幸を忘れて、ああ今日はいい一日だということだってあるのです。逆に、目玉焼きが上手に焼けた。それだけで今日はいい一日なるぞと思っていたら、財布を落としてしまった。ああ、最悪の一日だったと落ち込んでしまうこともあります。

 自分の幸福度を計算して、今日は幸せ、今日は不幸、そんな生き方をしていると、だいたいは不幸の方が大きくなって、「私の人生は不幸せだ」ということになってしまうのがオチなのです。

■ 「幸せ」を創造する生き方

 しかし、聖書が教える人間の幸せは、そんなものではありません。ここで「幸せ」と訳されている言葉は、もともとは「善い」という言葉です。自分の一日を「善い」と思えること、自分の命を「善い」と肯定できること、それが幸せなのです。

 一日のうちには色々な事が起こります。しかし、すべてを万事を益とし給う神様の御手の中にあると信じることができれば、どんな一日であっても「善い」と言える一日になるでしょう。

 そうすれば私たちは毎日を善い日々、すなわち「幸せな日々」として生きることができるのです。このように神様への信仰によって一日一日を善い日と信じて生きること、それが私たちの幸せなのです。

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