一房の葡萄

  人々がここで一房(エシュコル)のぶどうを切り取ったからである。

『民数記』13章24節

 一房の葡萄に表された愛

 「一房のぶどう」と聞けば、有島武郎の短編を思い出す方も多いことでしょう。友人の絵の具を盗み罪に苦しむ少年の心情と、少年の盗みを責めるよりも罪責感に苦しむ少年を救おうとする教師の愛が描かれた短編です。

 「『あなたはもう泣くんじゃない。よく解ったらそれでいいから泣くのをやめましょう、ね。次ぎの時間には教場に出ないでもよろしいから、私のこのお部屋に入らっしゃい。静かにしてここに入らっしゃい。私が教場から帰るまでここに入らっしゃいよ。いい。』と仰りながら僕を長椅子に坐らせて、その時また勉強の鐘がなったので、机の上の書物を取り上げて、僕の方を見ていられましたが、二階の窓まで高く這い上った葡萄蔓から、一房の西洋葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけていた僕の膝の上にそれをおいて静かに部屋を出て行きなさいました。」(有島武郎,『一房のぶどう』より)

 洗礼も受けていた有島武郎は、この教師にキリストを重ね、一房のぶどうに神の恵みを重ねていたのもかもしれません。

 神の愛を表す一房の葡萄

 ご承知のように、聖書の中でぶどうは神の恵みの象徴であり、しばしばぶどうの話が登場します。その中に、ちょっと違った「一房のぶどう」の話があるのです。

 モーセに命じられて、約束の地の様子をさぐりに行った人達が、一房のぶどうを竿に下げて担ぎながら持ち帰り、「約束の地にはまさしく乳と蜜の流れる地でした。これがそこの果物です」と、モーセに報告したというのです。実際、パレスチナには一粒がスモモほどもあり、一房が10キロ以上にもなる巨大なぶどうがあると、植物図鑑で読んだことがあります。彼らは、その巨大なぶどうの一房を持ち帰り、約束の地はこんなに素晴らしい土地ですと、モーセに見せたのでした。

 信仰をもって神の愛を受け取ろう

 ところが、彼らはその地を手に入れることは無理だと言い張りました。自分たちにはそれを手に入れる力がないと理由です。ああ、彼らは本当に惜しいことをしました。神様は一房のぶどうどころか、ぶどう畑さえも彼らに与えようとしたのに、それを手に入れる権利を失ってしまったのです。神の約束を信じることができず、足踏みしてしまったからです。
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