■ 空しさの中をさまよう弟子たち
主によって神の子とされた人であっても、主を離れてさまよってしまう時があります。この世の現実は、神の子どもたちに対してしばしば手厳しいのです。しかし、主の恵みを一度でも味わった者は、どんなにこの世をさまよっても空しさ以外にも何も感じないでありましょう。
主の弟子たちも心に主を見失い、昔の漁師に戻ろうとしました。しかし、かつての腕前は何の役に立ちません。一晩中、漁を続けて一匹の魚もとれず、心に空しさが広がっていくのでした。
■ 主に立ち帰る
彼らが暗闇の中で空しい漁に明け暮れている様子を、岸辺にたって一晩中見守っておられるお方がありました。夜が明けて、弟子たちは岸辺にその人をみました。弟子の一人が「あれは主だ」と叫びます。彼らは主のおられる岸辺に急ぎました。
■ さまよう子らを迎える主
彼らが、主のもとに急ぎ帰ってみると、主は、彼らのために炭火をおこし、魚を焼き、パンも備えて、彼らを帰るのを待ちうけていて下さいました。
主は、彼らの罪や弱さを問うことなく、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、暖かく招かれます。
■ 毎週の礼拝のありがたさ
このことを読むときに、私は、毎週日曜日の礼拝に招かれていることの幸いを思い起こします。たとえ月曜日から土曜日までの歩みが、どんなに罪の中にあり、空しく過ごされようとも、日曜日の朝、教会に行きますと、主は、私たちのために何もかも備えて待っていて下さるのです。
そして、一週間の罪や過ちを問い詰めるようなことはせず、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、イエス様自らがそなえてくださった霊的な、天的な食卓に招いて下さるのです。
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