預言者ヨナ物語 09
「わが思ひは汝らの思ひより高し」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書20章1-16節
旧約聖書 ヨナ書4章1-4節
神様の思いがけなさ
 今日から『ヨナ書』の四章、最後の章の学びに入ります。ヨナ書というのは、思いがけない話の連続であります。初っ端から、神様のご用をするはずの預言者が、神様のお務めから逃げ出してしまう。考えてみますと、これは、牧師が説教できないといって、日曜日の朝、どこかに雲隠れしてしまうようなものです。こんな意表をつく話から、『ヨナ書』は始まるのです。

 神様から逃げ出したヨナは、当然、その報いを受けなければなりません。詳細は省きますが、ヨナは嵐の海の中に放り込まれてしまうのです。ヨナは海の中に沈み、遠のいていく意識の中で、「ああ、わたしは神様に見捨てられたのだ」と、死を覚悟します。すると、次の意外な出来事が起こります。大きな魚がやってきてヨナをぱくりと呑むと、岸の近くまで泳いでいき、そこでヨナをポイと吐き出したというのです。魚がヨナを救うという意外性、そしてもっと驚くべき事は神様に見捨てられて死ぬべき人間を、神様が救い、生かし給うということであります。

 『ヨナ書』の意外な展開はまだまだ続きます。神様はヨナの命を救われただけではなく、もう一度ヨナを信頼して、ご自分の預言者として立て、今度こそはニネベに行きなさいとお命じになったというのです。皆さんは、日曜日の朝に、説教をほっぽり出して逃げてしまった牧師を、もう一度自分たちの牧師として迎えることができるでしょうか? そんな牧師は、金輪際信用ならないと思うのが普通でありましょう。ところが、神様は逃げ出した牧師をもう一度教会にお遣わしになるような、そんな突拍子もないことをなさったというのであります。

 やり直しのチャンスを得たヨナは、さすがに今度はちゃんとニネベに行って、神様の御言葉を一生懸命に宣べ伝えました。「あと四十日したら、この町は滅びる」と説教しながら、ヨナはニネベの町を巡り歩いたのであります。するとここで、またもや驚くべきことが起こります。神を神とも思わない異教徒に過ぎなかったニネベの人たちが、ヨナの説教を聞いて、王様から一般市民までこぞって、神様の前に謙り、悔い改めたというのであります。神様は、このニネベの人たちの殊勝な心をご覧になって、災いを下すのを思いとどまられたと、三章の終わりに記されています。

 どんでん返し(ヨナの逃亡)に次ぐどんでん返し(ヨナの救いと再生)が起こって、さらにその上にどんでん返し(ニネベの回心)が起こるという、『ヨナ書』というのは全体で四章しかない小さな書物であるにもかかわらず、私たちに本当に多くの驚きを与える書物なのです。

 この驚きこそが、『ヨナ書』のおもしろさでありまして、子供たちは、こういうお話を大好きです。先月のお餅つき大会でも、ヨナの紙芝居を子供たちに読み聞かせてやりますと、目を輝かせ、食い入るように見ておりました。驚きというのは、このように人の心を引きつけるものがあります。それを巧みに利用したのが小泉首相のサプライズ政治ですね。支持率が下がってくると、何かあっと言わせるようなことをして国民の注目を集め、「この人は何かしてくれるのではないか」という期待感をあおるのです。それが大きな支持率になりました。サプライズによって、国民は小泉劇場の中に引き込まれてしまったわけですね。

 しかし、『ヨナ書』にあるサプライズの連続は、私たちを聖書に興味を持たせ、聖書の中に引き込む役割を果たしているだけではありません。『ヨナ書』においては、この驚きこそ、私たちに対する最大のメッセージであり、この驚きを私たちがどのように受け止めるのかということが、神様によって私たちに問われているのであります。

 今日は、「わが思ひは汝らの思ひより高し」という説教題をつけさせていただきました。『イザヤ書』55章に記されている御言葉です。

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると
 主は言われる。
 天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
 あなたたちの思いを、高く超えている。  イザヤ書55章8-9節

 神様がお考えになり、神様が成し遂げられる御業というのは、私たちには思いもよらぬところに存在するのだということが言われています。まさしく『ヨナ書』というのはその典型であり、実例でありましょう。このような驚きに満ちた神様を、あなたはどのように受け止めるのか、今日から読み始める4章はまさにそのことが問われている、ヨナ書の核心部分なのです。 
怒るヨナ
 まず、4章はこのような言葉で始まります。

 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。

 「このこと」というのは、神様がニネベに対する災いを思い直されたということです。ヨナは、この神様のサプライズを、大いに不満に思い、神様に腹を立てたというのです。ヨナは、神様に面と向かって、このように訴えます。

 「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」

 ヨナはいったい何を言いたいのでしょうか? 神様の優しさ、恵み深さ、寛容さが許せないと訴えているのであります。ニネベの人たちをゆるすぐらいなら、私の命を取ってくださいとも言っています。ヨナにとって、ニネベの人たちは、絶対に神様の恵みにあずかるべきではない人たちだったのです。しかし、神様はきっとニネベの人たちを憐れまれるだろう。だから、私は最初、ニネベに行きたくなかったのだと、そんな言い訳までしています。

 実は、ヨナがこのように神様の愛を喜ばなかったのは、少しも不思議なことではありません。最近、裁判のニュースが多いので、そこから例を取りますが、山口母子殺人事件というのがあります。23歳の奥さんと11ヶ月のお子さんが、一人の若者の身勝手な欲望のために暴行され、殺された事件で、最高裁の弁論が開かれました。一審、二審では無期懲役の判決が出されており、死刑判決が出るかどうかということが争点となっている裁判です。これは本当にひどい事件で、私などは単純な人間ですからニュースを見ながら、つい感情的になって「これは絶対に死刑に決まっている。無期懲役なんてあり得ない」と思ってしまいます。そういう風に考える時の私の心を正直に覗いて見ると、自分なりの正義感はありますけれども、神様の愛ということは少しも考えていないし、望んでもいないということに気づくのです。これはほんの一例をお話ししたまでです。実際に生活していく中には、もっともっとたくさん、このように神様の愛を望まないような場面というのが出てくるわけです。

 そういうことを思い起こしてみますと、ヨナの気持ちはとてもよく分かります。ニネベの人たちはユダヤ人ではありません。真の神様を知らず、モーセの律法も知らず、ユダヤ人からしてみればはなはだ破廉恥な生活をしている。クリスチャン流に言えば、教会にも行かず、聖書も読まず、祈りもしない人たちです。たとえ祈っていても、イエス・キリストの御名によって祈っているわけではない。私たちからすれば偶像礼拝です。こういう人たちは、神様に救われないんだという気持ちが、ヨナの中にあるのです。私たちの中には、そんな気持ちはないと言い切れるでしょうか。

 しかし、ヨナだって神様が逃げ出した罪人ではないか、と私たちは思います。しかし、ヨナも、自分がまったく正しい人間だと思っているわけではないのです。けれども、それを差し引いても、やはりニネベの人たちと自分は同じではない。それよりはましだと思っているのであります。この点についても、私たちはヨナと同じでありまして、クリスチャンであるということは自分が罪人であって、神の赦しを受けた人間であるということをよく知っているはずなのですが、母子を自分の欲望のために殺すような人間とは違う。キリストを知っているという点について勝っている。そんな風に思っているのではないでしょうか。

 ところが、神様の限りない愛は、そのような私たちの誇りとか、自信というものを、まったく無意味なものにしてしまうわけです。まじめに生活している人も、自堕落で破廉恥な生活をしている人も同じ。洗礼を受けている人も、受けていない人も同じ。愛のために労苦した人も、自分のためにだけ生きた人も同じ。神様は、みんな同じように愛し、恵み、お救いになる。それが『ヨナ書』のメッセージなのです。このような驚くべき神様の愛、恵み、寛容さというものに対して、「これでは神様を信じていても、信じていなくても同じではないか」、「教会に行っても、行かなくても同じではないか」、「キリスト教だろうが、ユダヤ教だろうが、何教だろうが、関係ないではないか!」と、ヨナは大いに不満に思い、怒ったと書いてあるわけです。
あなたの怒りは正しいか
 怒るヨナに、神様はこのようにお答えになります。

 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」

 あなたの怒りは正しい怒りか? そのように神様はヨナに問われたというのです。これはもちろん、私たちにも問われていることなのです。

 そして、これはなかなか難しい問いだと、私は思います。先ほどから申していますが、私たちはイエス様を知り、洗礼を受けて、クリスチャンになって、神様を礼拝する生活、信仰生活を守ることによって救われていると、単純に思っていると思うのです。けれども、そうではないと、神様はおっしゃっているわけです。クリスチャンではなくても、私は救うのだ。洗礼を受けていなくても、私は救うのだ。信仰生活をしていなくても、私は救うのだ。これが、『ヨナ書』のサプライズなのです。これを私たちが「アーメン」と言って受け入れるということは、どういうことなのか? そのことをよく考えなくてはいけません。

 洗礼を受けなくても救われる。それならば、どうして洗礼を受けよ、授けよとイエス様はおっしゃったのか? 私たちが洗礼を受けていることにどんな意味があるのか。毎週の礼拝を守り、聖書を学び、苦労して伝道することにどんな意味があるのか。そんなことをしなくても救われるなら、自分の好き勝手にして、なおかつ救われる方がずっといいじゃないか。世間と摩擦を起こしながらも、私たちがクリスチャンとしての信仰を守るなんてまったく無駄な努力ではないか。9節を見ますと、ヨナは、「怒りのあまり死ぬほどです」と言いましたが、神様のサプライズは、それほど私たちの存在を、信仰、価値観を揺るがすような事になりかねないのです。

 今日は、イエス様の「ぶどう園の労働者の譬え」を、合わせお読みしました。このたとえ話にも、『ヨナ書』とまったく同じ種類のサプライズがあるのです。朝早くからぶどう園で働いた人と、夕方遅くなってからほんの1時間だけぶどう園と働いた人が、まったく同じ報酬を受け取ったという話であります。まる一日、暑い中、辛抱して働いた人たちは、当然、主人の報酬に怒り、訴えます。このたとえ話の主題も『ヨナ書』と同じ、受け入れがたいほど大きな神様の愛、憐れみということにあるのです。

 ぶどう園の主人は、その怒りに、このように答えたと言います。

 「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」

 「友よ、あなたに不当なことはしていない」、これは本当です。ヨナにしたって、神様から不当な仕打ちを受けたことなどありません。ぶどう園の主人が怒れる農夫たちに「友よ」と呼びかけてくださったように、神様はヨナに対しても実に親しく語りかけてくださっています。それはこの後のとうごまの話を読めばさらにはっきりします。いや、それを見るまでもなく、これまでの話の中で、神様のサプライズはヨナにも与えられ、十分すぎるほどヨナに恵み深くあってくださったのです。それなのに、どうして私が他の人に恵み深くあろうとすると、あなたは怒るのか? 私が愛したい人と愛し、恵みたい者を恵んではいけないのか? 「わたしの気前のよさをねたむのか」と、神様は問うているわけです。

 別の言い方をしてみましょう。神様は、一日中働いた農夫たちを「私の友よ」と呼んでくださるように、あるいは一度は背いたヨナの罪を赦し、再び信じ、大切なお仕事を任せてくださるように、クリスチャンとして神様を礼拝し、その教えを学びつつ生きる私たちのことを、本当に喜んでくださっているのです。私たちが今後も喜びをもって、感謝をもって、そうあり続けることを心から願っていてくださるのです。

 けれども、それと同じように、神様はイスラム教徒も、ヒンズー教徒も、仏教徒も、また無神論者たちさえも愛してくださっているのだ、ということであります。確かに、そのことは、私たちの心を戸惑わせます。しかし、神様の愛というのは、私たちがそのように驚き、戸惑うほどに大きく、限りがないものなのです。

 こんな話を聞いたことがあります。日本でキリスト教が流行らないのは、キリスト教の排他的一神教よりも、日本の多神教の包容力の方が勝っているからだ、というのです。キリスト教のように、他の人たちの信じる信仰、宗教をすべて悪と断罪し、自分たちだけが正しいという信仰は、日本人には決して受け入れらないのだというのです。

 確かに、キリスト教が日本で伝道していく課程には、そのように言われてしまう一面があったかもしれません。昔は洗礼を受けると、仏壇を壊して河原で燃やしたり、仏式の葬式にでなかったり、町内会のお祭りに寄付金を出さなかったり、そういうことを頑なにやり遂げるのが立派なクリスチャンだと思われていたのです。あるいは酒を飲まない、たばこを吸わない、賭け事をしない、それは良いとしても、手品なんていうのは人をだますことだからやっちゃいけないとか、酒やたばこを売ったお金は献金にふさわしくないとか、そんなことも大まじめに言われていたことがあるのです。もちろん、こういう人たちは他人に厳しいだけではない。自分自身にも非常に厳しく、信仰も真剣でありました。ですから、立派な方々もたくさんいるのです。

 ただ、そういうことが、果たして聖書に書いてある信仰なのか、救いなのかと言われると、それはちょっと違うのではないかと、私は思います。伝道についてもそうです。「あなたは罪人です。悔い改めなさい。洗礼を受けなさい。そうしないと救われません」というのが、キリスト教の伝道だと思っている人がいるのは事実です。でも、これも聖書とはちょっと違うのではないかと思います。

 一つだけ例を挙げますと、イエス様は、姦淫の罪を犯した婦人にむかって石を投げようとする人々に向かってこう言われました。

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 これが聖書の言うキリスト教であるとするならば、私たちは「あなたは罪人です」なんて言うはずがないのです。そうではなく「私たちは罪人です。しかし、こんな私を神様はなおも愛してくださいました」と神様の驚くべき愛をこそ語るに違いないのです。この時、イエス様によって「わたしもあなたを罰しない。今後は罪を犯さないように」と言われた婦人は、きっとそのように語り伝えたことでありましょう。

 私たちは、キリスト教は一神教なのだから、他宗教を絶対に許さないはずだと、なんとなく思っている。神様は正しく、潔癖なお方なのだから、罪人に厳しくあるはずだと、なんとなく思っている。しかし、「なんとなく」ではいけないのです。もっときちんと聖書を読まなくてはいけません。そうしないと、洗礼を受けないと救われないとか、異教徒は神様の恵みを受けることができないというような、聖書に書かれていないことを神様の御心だと勘違いしてしまうことがあるわけです。

 神様は、「私は唯一の神で、他に神はいない」とはっきりと主張なさっています。罪を憎む神であることもちゃんと書いてあります。しかし、唯一の神様だからこそ、神様を信じない者たち、異教徒たちにとっても、神様は神様であろうとされているのであります。また罪を激しく憎む神だからこそ、それに勝る激しさをもって人間を愛される神であるということが書かれているのであります。

 「あなたの怒りは正しいのか」「わたしの気前のよさをねたむのか」という神様の問いを、私たちは真剣に受け止めなくてはならないと思います。そして、このような驚き、とまどい、受け入れがたいほど大きな、限りない愛があればこそ、私たちもまたこのようにクリスチャンとしての救われた生活が与えられているのだということを忘れてはならないと思うのです。
悔い改めの宣教
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