エステル物語 13
「新しい律法」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 エステル記  8章1-17節
主の裁きは真昼のように輝く
 ハマンは処刑されました。そしてハマンの財産はエステルに、ハマンの地位はモルデカイに与えられたのです。これは、世の知恵ではなく信仰を糧とし生きようとする真面目なクリスチャンにたちに大きな希望を与える物語です。詩編37編1-6節にはこういう信仰の歌があります。

 「悪事を謀る者のことでいら立つな。
  不正を行う者をうらやむな。
  彼らは草のように瞬く間に枯れる。
  青草のようにすぐにしおれる。
  主に信頼し、善を行え。
  この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
  主に自らをゆだねよ
  主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
  あなたの道を主にまかせよ。
  信頼せよ、主は計らい
  あなたの正しさを光のように
  あなたのための裁きを
  真昼の光のように輝かせてくださる。」

 イエス様がそうであったように、神様の前に正しく行きようとする人間は、しばしばハマンのような悪い人間や、律法学者、ファリサイ人のように自己保身に執着する人間によって悩まされ、傷つけられます。みなさんの中で、「結局、狡い人間がうまいことを世渡りをして、正直に真面目に生きている人間が割を食っている」という思いを抱いたことがない人間がいるでしょうか。

 しかし、聖書は「彼らの行く末を知りなさい」と言っているのです。たとえ今は善悪が逆転しているように見えても、「必ず主は正しい裁きを行ってくださるのだ」というのです。だから、「悪しき者のことで苛立つな、ただ主を信頼し、信仰によって命を得、たゆみなく善を行いなさい」ということです。

 エステル記は、まさにそのような神様の裁きが真昼のように輝く時が来るということを証明してくれる物語なのです。
新しい法律
 しかし、悪者ハマンが神の裁きを受けるだけでは問題の解決になりません。それはそれで胸のすく話ですが、王の名によって布告された「ユダヤ人撲滅」のおふれはまだ有効なのです。7節の終わりにこういわれています。

 「王の名によって書き記され、王の指輪で印を押された文書は、取り消すことができない」

 たとえハマンの仕組んだこととはいえ、王の印が押された文書は取り消すことができないのです。しかし、これが取り消されなければ、たとえハマンが失脚してもユダヤ人撲滅作戦は実行されることになってしまうわけです。

 エステルは、泣きながら王様に訴えました。

 「もしお心に適い、特別の御配慮をいただき、また王にも適切なことと思われ、私にも御目をかけていただけますなら、アガグ人ハメダタの子ハマンの考え出した文書の取り消しを書かせていただきとうございます。ハマンは国中のユダヤ人を皆殺しにしようとしてあの文書を作りました。 私は自分の民族にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びないのでございます。」

 どんなにエステルが泣いて訴えても、文書を取り消すことはできません。かといって、他に何の道もないわけではありませんでした。王様はエステルとモルデカイに言いました。

 「わたしはハマンの家をエステルに与え、ハマンを木につるした。ハマンがユダヤ人を滅ぼそうとしたからにほかならない。 お前たちはよいと思うことをユダヤ人のために王の名によって書き記し、王の指輪で印を押すがよい。王の名によって書き記され、王の指輪で印を押された文書は、取り消すことができない。」

 王様はここで二つのことを利用しなさいと知恵を授けています。一つは、王様がハマンを木につるして処刑したということが何を物語っているか、その王の御心を人々に知らせることだというのです。ハマンの処分、モルデカイの受けた栄誉、それは先に出された法律はすべてハマンが仕組んだことで、王はユダヤ人の撲滅を望んでいないということを物語っている、そのぐらいのことは誰にでも分かるだろうというのです。

 そして、その上で、モルデカイに与えた王の印をもって、前の法律を実質的に無効にする新しい法律を作りなさいと言うのです。

 モルデカイはすべてを了解し、さっそく新しい法律を作りました。それは11節にありますが、ユダヤ人の自衛権を認めものだったのです。すべてのユダヤ人には、自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や軍隊を滅ぼし、その持ち物を奪い取る権利を保証するというのです。

 この新しい法律は、すぐにペルシア帝国全土に告げ広められました。もちろん、ユダヤ人たちはこれに大喜びをしました。17節 

 「王の命令とその定めが届くと、州という州、町という町で、ユダヤ人は喜び祝い、宴会を開いて楽しく過ごした」
福音について
 ところで、これは実に偉大な真理が隠されている物語だと思います。新しい法律によって、以前の法律が実質的に無効にされるというのは、旧約と新約の関係を現しているのではないでしょうか。ハマンの出した古い律法は、すべてのユダヤ人を罪に定める律法でした。しかし、モルデカイの出した新しい律法は、すべてのユダヤ人を救う福音だったのです。旧約と新約の関係も同じです。イエス様による新しい律法(福音)・・・私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)・・・によって、今までの律法が実質的に無効とされるのです。 

 それからハマンが木につるされたことと、イエス様の十字架の関係も重要だと思います。悪者ハマンとイエス様を同じように見なすのは気が引けるのですが、要は、ハマンの死が王の御心を現していたように、イエス様の死が天の神様の御心を現していたということなのです。

 王は命乞いをエステルとモルデカイにこう言いました。

 「わたしはハマンの家をエステルに与え、ハマンをきにつるした。ハマンがユダヤ人を滅ぼそうとしたからに他ならない」

 つまり、王様がハマンを木につるしたということが、王様の御心はユダヤ人が滅ぼされないことにある、救いにあるということを物語っているというのです。同じように、ローマの信徒への手紙3章25節に、こうしるされています。

 「神はキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 このように、エステル記におけるユダヤ人の救いの物語は、イエス様の救い物語を予表しているものがあるのです。おおきな違いは、エステル記では罪のある者が木につるされたのですが、新約では罪のない神の子が十字架にかけられたということです。「罪人を裁き、正しい人を救われる」これが旧約の義の律法であるとするならば、「正しい人が裁かれ、罪人がゆるされる」これが新約の愛の律法なのです。
ユダヤ人への恐れ
 さて、これらの一連の出来事を見た異邦人たちは、一様にユダヤ人を恐れ、中にはユダヤ教に改宗して、ユダヤ人になろうとするものまで出てきたということも書かれていました。

 ユダヤ人への恐れというものは、それ以前にもありました。そもそもハマンがユダヤ人撲滅をたくらんだのも、このお恐れの故だったのです。3章6節、8-9節. またハマンが落ち目になり出したとき、ハマンの妻や友人たちはこのように言いました。6章13節、 そして、今日のところに結びつくわけです。

 このユダヤ人への恐れというのは、言い方を変えれば神様に愛されている者がいかに力強く守られているかということへの恐れでありましょう。同じような恐れがキリスト者に対しても生じました。使徒言行録2章43-47節。またローマ帝国はキリスト教を絶滅させようとしましたが、ついにそれを諦め、逆に自らキリスト教に改宗する道を選びました。それも同じ事を物語っているでしょう。

 私は最後にこの言葉を思い起こします。第一ヨハネ5章4-5節

 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」
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