霊的な体験について

 「困り果てているのです。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神はわたしを離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべき事を教えていただくためです。」

旧約聖書 『サムエル記上』28章15節

 神秘体験が豊かなサウル

 サウルはある意味で霊的体験の豊かな人でありました。サムエルに油注がれた後、一時的でしたが激しく預言の霊を受けました(10章9節以下)。悪霊にさいなまされたことも、彼が霊的感性の敏感さの現れとも言えます。ダビデを追いながら、サウルは再び我を失うほど激しく預言の霊を受けました(19章19節以下)。また今回の箇所では、霊媒師によって死んだサムエルの霊を呼び起こし、その霊と話をしています。

 神秘体験をしないダビデ

 一方、ダビデにはそのような不思議な体験がありません。しかし、聖書は、神の霊はいつもダビデの心や知性と共にあり、ダビデこそが霊的な人間であったといているのです。

 神秘体験をする人が霊的であるとは限らない

 日本では信仰とか、救いとかいう時、サウルが経験したような体験こそが重視される傾向があるように思います。何を信じるかはあまり問題ではなく、癒しとか、悟りとか、神秘体験とか、死者との交流とか、そういうものが信仰や救いに直結すると思っているのです。

 こうした考えは、最近のニューエイジ思想によって益々強くさせられています。しかし、サウルとダビデを比べれば分かりますように、不思議な体験をした人が必ずしも霊的な人ではないのです。

 霊の実を結ぶ人こそ霊的な人である

 大切なことは、不思議な体験ではなく、聖霊の実を結ぶことなのです。聖書にこう書いてあります。

 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22節)。

 つまり、聖霊に満たされるとか、神の霊を体験するというのは、いわゆる神秘体験をすることではなく、神の子ども等としての新しい人格を身につけることなのです。

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