■ 神の義の不思議
罪のない人が十字架にかけられて死ぬということは、果たして正しいことでしょうか。決してそうは言えません。しかし、聖書は、罪のない神の御子が十字架にかかり、それを信じる者が救われると言います。そして、それこそが神の義であるというのですから、本当に驚くべき話ではないでしょうか。
■ 過ちを認めるサウル
ダビデは自分の命を狙うサウルを見逃してこういいました。「王様、わたしはあなたを殺すチャンスがあったのに殺しませんでした。私の心にはあなたに対する悪事も反逆もないことがお分かりだと思います。それなのにどうして私の命を奪おうとするのですか」ダビデへの憎しみに燃えていたサウルは、突然、ダビデの恵みと憐れみに触れ、声を挙げて泣きました。そして、「お前はわたしより正しい」と言ったのです。
■ 恵みが罪に打ち勝つ
聖書には「悪をもって悪に報いず、善をもって報いなさい」(ローマ12:17,Tテサロニケ5:15,Tペトロ3:9)という教えがあります。そして、「善をもって悪に勝ちなさい」というのです。普通、「正義が勝つ」と言う場合、正義が悪を容赦なく打ち負かしすことを言います。しかし、ここではそうではありません。恵みが罪に打ち勝つのです。
■ 神の義はいかにして全うされるか
正義とは何でしょうか。悪人が罪に定められることでしょうか。そうであるならば、私たちは神の義を求めれば求めるほど罪に定められることになってしまいます。確かに罪が罪とされなければ正義はないでしょう。しかし、神様は怒りによって私たちを罪に定めるのではなく、愛によって私たちに罪を悟らせ回心させて下さるのです。
罪人になお恵み深くあり給う神の愛に触れるとき、私たちの罪に凝り固まった心は打ち砕かれ、神の恵みが私たちのうちに神の義を全されます。神の愛が、恵みが、十字架が、私たちの罪に打ち勝って下さる、それが神の義なのです。
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