■ サウルを見逃すダビデ
サウルは神に見放された人間であり、ダビデの命を狙う人間でした。その上、サウルに代えてダビデを王にするということは、神様の御心でもあったのですから、ここでダビデがサウルを殺しても少しもおかしくないのです。それどころか神様の御心を成就するための絶好の機会であるというのが、従者たちの意見でもありました。
しかし、ダビデはサウルを見逃しました。ダビデがそれをしなかったのは、サウルは神に油注がれた者、つまり神様に属する人間だからです。「そのような人に、私が手をかけてることは許されることではない」と、ダビデは言ったのでした。
■ 何が御心なのか
神の御心に従うことが大切なことは言うまでもありません。しかし、何が神の御心に従うことになるのかという点について、ダビデと従者の間に相違がありました。同じように私たちもその点で、しばしば悩まされたり、人と意見が対立することもあるのではないでしょうか。何が神様の御心に従うことになるのか、それを知るためにはどうしたら良いのでしょうか。これは、神様の声を直に聞くならば別ですが、そうでなければ簡単に答えがでない問題です。
■ ダビデの謙遜
そこで、私たちはダビデの謙遜さに学びたいと思います。一つは、今受けている試練もまた、神のご計画の一部であると信じ、それに服するということです。二つ目は、神様のご計画の実現は、神様がお決めになった時期と方法によって行われるのであって、自分がそれを決めるのではないと考えたことです。
ダビデはこのような謙遜さをもって、神様のご計画を進めるためならば、或いは自分の身を守るためならば、少しぐらい罪を犯してもいいという誘惑を退けることができたのです。そして、神の時を待つという道を選んだのでした。
|