■ 先行きが見えない状況
ダビデはもはや独りではありません。しかし、まだ危機を脱したというわけでもありませんでした。ダビデは、自分の年老いた両親を慮って、「神がわたしをどのようになさるか分かるまで、私の父母をかくまってください」と、モアブの王に頼みます。
「神が私をどのようになさるか分かるまで…」この先どうなるのか、ダビデにはまったく見通しが立たないのです。
■ 神が・・・
「神が私をどのようになさるか分かるまで…」
何気ない言葉ですが、「神が・・・」というところにダビデの信仰が現れていると思います。どうして自分がこんな目に遭うのか、ダビデは神様のご計画をよく知らないでいます。しかし、ダビデは、身の振り方を神様に委ねきっているのです。
それは「自分は何をすべきか」ではなく、「神様が何をしようとしておられるのか」ということこそ大切な問題だと考えるからです。理不尽とも言えるようなこの試練の中で、なおも全ての事が神様の御業として進められているのだという信仰が、ダビデにあったのです。
■ 待つ信仰
「神が私をどのようになさるか分かるまで…」
それが分かるまでは「自分が何をするか」は何一つ決められない、待機するのみだとダビデは考えます。これが神様と共に生きようとするダビデの信仰なのです。
世の多くの人は、身の振り方を考えるとき、「わたしは何をなすべきか」と考えます。そして、自分で目標を立て、計画し、自分で始めるのです。しかし、自分だけで考える人生は「神なき人生」です。それは「わずかの間現れて、やがて消えて行く霧」のような人生に過ぎません(ヤコブ4:13-14)。
私たちも身の振り方に悩むことがあります。その時に大切なことは、「どうしたら、神様と共に生きることになるのか」ということではないでしょうか。そのためには、何でも自分で決めてしまうのではなく、「示されるまで待つ」ということも必要なのです。
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