■ 友に救いを求めるダビデ
これまでサウルは五度もダビデを殺そうとしました。竪琴を弾くダビデに槍を投げつけ、串刺しにしようとしたことは二度ありました。無謀な戦争を強い、討ち死にさせようとしたこともありました。ダビデの家に暗殺者を送り、寝込みを襲おうともしました。サムエルのもとに逃れるダビデを追いかけて殺そうともしました。
こののっぴきならない状況に、ダビデはヨナタンにこう訴えるのです。「どうして、あなたの父上は私を殺そうとするのですか。私が父上に何かしたでしょうか」
■ 友の悩み
こう訴えられて、ヨナタンは苦しみます。自分はどちらの敵になるわけでにもいかないのです。しかし、この状況下、息子として父を愛し、親友としてダビデをも愛するうまい道があるのでしょうか。
「間に立つ者」はいつも苦しみ、犠牲を払います。ヨナタンは父の気持ちを確かめるべく、「なぜダビデを殺さなくてはならないのですか」と訴えました。すると父サウルはダビデをかばう息子に激怒し、ついには槍を投げつけ、我が子を殺そうとしたのでした。ヨナタンの心は深く傷つき、食事すらとることができません。
■ 間に立つ者の愛と苦しみ
ヨナタンの苦しみを通して、私はイエス様の十字架を思い起こしました。イエス様の御苦しみもまた「間に立つ者」の苦しみでした。義しき神と罪深き人間の間に立って十字架にかかられたイエス様に目を注ぐ時、私たちはイエス様が真の神の子であり、それと同時に私たちの真の友であるということを知るのです。
「間に立つ」とは、何と大きな苦しみであり、何と大きな愛でしょうか。しかし、このような愛と苦しみを負ってくれる「間に立つ者」こそが、今の世の中に最も必要な人なのではないでしょうか。
憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに平和をもたらすのは、このような人なのです。
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