キリスト教人物小伝(15)
井深八重(1897〜1989)

 名門井深家に生まれる

 井深八重は会津藩家老の家柄に生まれましたが、母は幼い時に他界し、父は国会議員で家にいることも少なかったため、明治学院学長だった父方の叔父、井深梶之助の家に物心ついてから預けられました。そこで何不自由なく英才教育を施されて育ち、同志社女学校を卒業後、英語教師として長崎の県立女学校へ赴任します。

 発 病

 しかし、長崎での生活が1年過ぎて多くの女生徒たちから慕われていた頃です。八重の肌に赤い吹き出物のような斑点が幾つも出てきました。福岡の大学病院で精密検査を受けると、当時最も恐るべきハンセン病と診断されてしまったのでした。

 ご存じのように、当時、この病気は遺伝病という誤った俗説があり、恥ずべき業病とされていたため、名門井深家からハンセン病者を出すことは一族の重大事件でした。八重は病名をふせられたまま御殿場の神山復生病院に隔離入院させられ、また勝手に井深家から籍を抜かれしてまったのでした。

 絶望

 八重が入院した病院は、レゼー神父(フランス人)を病院長とするハンセン病専門の病院でした。しかし、医者はレゼー神父以外にはおらず、看護婦も皆無で、比較的軽い患者が重い患者の世話をしている有様でした。

 重くなると顔は奇怪になるまで崩れ、差し出す手の指は欠け、脚は膿が包帯からにじみ出て、死を待つのみの哀れな患者が苦しみの中で助けを求めてもがいています。それを見て「わたしはほんとにライなの、あんなふうになって死んでいくほかないの?」と、八重は一瞬にして暗黒の奈落に突き落とされたような衝撃を感じ、将来の夢も結婚もすべてを失った絶望から自殺を考えたことも度々でした。

 気づき

 しかし、笑顔で患者たちに接し、自分も感染するかもしれないのに素手で患者をなでさするレゼー神父と、患者たちの明るい姿を見て、八重はおもいもよらぬ世界がここにあることに気づき始めます。

 「もしかしたら、この世で生の望みを絶ったはずの彼らが新たな生の意味に目を開き、神の手に身を委ね、決して空ではない確かなものをつかみとろうとしているのではないのか。」 

 八重は、軽患者としてレゼー院長を手伝い、多くの患者の看護に努め、絶望と戦いながら重苦しい一年を過ごしたのでした。

 運命のいたずら

 井深八重がハンセン病と診断され、神山(こうやま)復生病院に入院して一年が過ぎたとき、運命が再びいたずらをします。八重の醜い肌の斑点が不思議に消え、女性の肌の美しさが蘇ってきたのです。

 レゼー院長の勧めで東京の専門病院で精密検査を受けると、八重のハンセン病は誤診であったことが判明したのでした。レゼー院長はこのことをとても喜び、「この病気でないことが分かった以上、あなたをここにお預かりすることは出来ません。自分で将来の道をお考えなさい。もし、日本にいるのが嫌ならば、フランスへ行ってはどうか。私の姪が喜んであなたを迎えるでしょう。」とまで言ってくれました。

 一転して絶望の底から救われた八重でしたが、なぜか素直に喜んではいけない気がします。今自分がこの病気ではないという証明書を得たからといって、今更、大恩人のレゼー神父や、気の毒な病者たちに対して踵をかえすことができないと思ったのでした。

 神様に与えられた人生を生きる

 八重は、「もし許されるならばここに止って働きたい。」と答えます。やっと解放された病の恐怖に、今度は自分から飛び込んでいこうというのです。

 こうして八重は看護婦免許を取得すると、正式に神山復生病院の看護婦として奉職しました。それからというもの、老院長を助けて患者の看護は勿論、病衣や包帯等の洗濯から食事の世話、経営費を切り詰めるための畑仕事、義援金の募集、経理まで、病院のためなら何でもしました。

 やがて救ライ事業に生涯を捧げた八重の労苦が世に認められるようになり数々の賞を受賞しました。1959年復生病院創立70周年にローマ法王ヨハネ23世から表彰され、日本では黄綬褒章が授与されました。さらに1961年には国際赤十字から看護婦の最高名誉ナイチンゲール記章を受章したのでした。

 しかし、彼女が受けたもっとも価値ある賞は、患者たちから「母にもまさる母」と慕われたことであり、また天国で受ける神様のご褒美であった事でしょう。

 1989年、八重は91歳で永眠しました。自分がハンセン病との誤診を受けたことについて、彼女はこのように語っていたといいます。

 「自分がここにいることは恵みです。神様からこの場を与えられたことを感謝しています」

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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp