中森幾之進牧師は徳島県、寒村の貧しい農家に生まれ、弟妹たちの面倒を見ながら苦学して商業高校を卒業し、やがて関西学院宗教主事の柳原正義牧師の助手となり、構内に住み込みで働く事になりました。これを機に彼は受洗し、神学部にも入学し、昼間は学生として学び、夜は柳原主事の許で働く様になったのでした。
しかし、被差別部落や農民組合での活動の故に特高に取り調べられたり、過労と栄養失調で病気をしたり、弟が強盗傷害罪を働いたり、彼の精神的、経済的、肉体的な苦労は絶ず、頼みの柳原主事が健康上の理由で学校を去ると、彼は助手の仕事と住む場所を失い、面倒を見ていた弟と共に路頭に迷う事になります。
その上、欠席が多い事や思想犯として拘留された事を理由に神学部まで退学をさせられて、彼はまったく絶望し、神とキリストを呪い、餓死しようと決心をしたのでした。
彼は聖書と赤鉛筆とタオル一本を持って有馬の山奥に行きました。山の中で聖書を開くと、何も食べず水だけを飲んで三日間、これまで赤線を引いた箇所に全部赤鉛筆で「ウソ」と書き込んでいきました。四日目の朝、もしや読み落としがあったら自分の死は恥になると思い、再度聖書を開きました。イエス様と並んで十字架に処刑された二人の犯罪人を描いた所が目に留まりました。一人はイエス様を呪い、もう一人はこれを戒め、御国に入るとき思い出してくださいと頼んで受け入れられた箇所です。
その時、一条の光が彼の魂を貫きます。自分はあの犯罪人のように主を呪ったが、今もう一人の犯罪人のように主に赦され受け入れられているという主の大きな愛に包まれているのを実感し、「主よ、中森を赦してください。中森の死を私に死なせてください。そして中森をあなたの子として愛し生かしてください」と祈り、喜びと希望に満たされて山を下りました。帰ってみると、不思議にも、ある教授の執り成しで卒業できるようになっていました。彼は後に山谷伝道所を開設し、底辺の人々の友となりました。
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