キリスト教人物小伝(10)
石井十次(1865-1914)

 石井十次(1865-1914)は、いまだ貧しき発展途上国であった日本において、22歳の若さで孤児救済事業を始め、わが国最初の孤児院(岡山孤児院)を創設するなど、近代日本における社会福祉事業の開拓者、先駆者として生涯を捧げたクリスチャンです。

幼少の頃より心優しき十次

 十次は慶応元年、宮崎県高鍋に、下級武士の子として生まれました。十次の幼少の頃の逸話として、戦前の修身でも取り扱われた「縄の帯」というお話しがあります。天神様のお祭りで、人々はこの日とばかり晴れ着を着込んで出かけていく中、母親は十次に、新しい手織りつむぎの帯をしめさせて参詣させました。ところが、お祭りから帰ってきた十次は、つむぎの帯のかわりに、きたならしい縄の帯をしめています。不審に思って母がたずねると、「友だちの松ちゃんが、きたない着物に縄の帯をしていたのをみんなからからかわれていたので、ぼくの帯と取り替えてやったのです。」と答えたというのです。

 このように心根の優しさを持った人であると同時に、十次は勤勉で、志の高い人でもありました。14歳で「世の中や国のために役に立つ人間になりたい」と海軍士官を志した十次は東京の名門攻玉社に入学。しかし、1年もしないうちに脚気になって、やむなく退学して帰郷。健康を回復すると、仲間を集めて荒れ地の開墾に汗を流す毎日を送ります。16歳で結婚、小学校教師を経て、宮崎警察署に雇われるようになりました。その時、十次の自分の身を惜しまない優しさが発露されるような事件がもう一つ起こります。攻玉社時代の友人の妹が遊郭に身を沈めていると聞いて、彼は借金をして彼女を解放します。ところが、解放の過程で性病に罹患してしまうのです。

クリスチャンとなり、医者の道を歩む

 が、人生はどう転ぶか分かりません。これがきっかけで、石井十次は人生最大の出会い、つまりイエス様との出会いへと導かれていくのです。彼の治療にあたった宮崎病院長の荻原百平は熱心なクリスチャンで、十次に多大な影響を及ぼし、入信のきっかけをつくったのでした。 

  熱心なクリスチャンでもあった荻原百平は、十次に医者になることを勧め、十次も「人を助けるたに」にと決心して岡山県医学校(岡山大医学部)に入学しました(17歳)。また、荻原の紹介で、岡山教会の初代牧師・金森通倫(みちとも)と出会い、やがて洗礼を受けることになります。

孤児との出会い

 十次は、医師としての実習を兼ねて、岡山の田舎の上阿知(かみあち)診療所で働くことになりました。診療所の横には大師堂があり、ここには四国や小豆島の霊場を巡る貧しいお遍路さんや、今でいうホームレスの人たちが雨露をしのぐ場所にもなっていました。十次は毎朝そこを訊ねては、寝起きする人を見舞い、妻品子の作った握り飯を与えたりします。

 ある朝、男の子と女の子を連れた貧しい身なりの母親が、十次に泣きながら頼みました。
 「私は備後の百姓ですが、借金で故郷にいられなくなり、夫と三人の子供で四国遍路に出ました。途中で主人と末の子に死なれ、仕方なく物乞いをしながら生きていますが、子供一人なら人に雇われて洗濯などしても暮らせるものの、二人だと嫌って雇ってもえません。妹は生まれつき足が不自由なので難しいでしょうから、兄の方を与ってもらえませんか」
 十次は妻品子とも相談し、男の子を預かることにしました。この8歳になる子こそ、十次が生涯を捧げた孤児救済の第1号となったのです。

 しばらくすると、備前市に8歳の男の子が物乞いをしていると聞き、十次はその子を捜し出して引き取りました。また、噂を聞いた極貧の女性がやってきて、十次に男の子を預けました。こうして瞬く間に十次は三人の孤児を与ることになったのです。

孤児救済の道へ

 夫婦と3人の孤児では診療所は狭く、やがて岡山市のお寺(臨済宗・三友寺)に一室を借りて移り住み、住職の許しを得て、山門に「孤児教育会」(岡山孤児院の前身)の看板を掲げます。明治20(1887)年9月22日、十次22歳の秋でした。当時の日誌に、十次は「 孤児のため 命を捨てて働かん 永(とわ)の眠りの床につくまで 」と記しました。

 岡山市内の橋の下には、当時たくさんの孤児たちが住んでいました。十次は医学部に通いながら、その孤児らを見て心を痛め、説得に応じた20人ばかりを集め、三友寺の軒下で文字を教えたりしました。孤児の数はしだいに増えていきました。

 十次は「孤児を救って教育することこそ国家のためである」と、キリスト教会の人や医学校の友人に普く働きかけ、後援会の会員になってもらい、その会費と寄付金で孤児たちを賄いました。まだ鉄道がつながっていなかった時代のこと、十次には船便で神戸、大阪、京都へと資金集めに奔走する日が続きました。

 郷里にも、「十次さんは岡山で乞食を集めて養育しているそうな」という風評が聞こえてきました。父は 十次に使いを出し、「かならず医者になれ。でなければ帰るな。」ときつく戒めます。確かに医学と孤児救済の両立は負担が大きすぎ、十次の心を悩ませていることでした。

 しかし、十次は父の忠告とは逆に、「医者になる者はほかにもいるが、孤児を救おうとする者は少ない。自分の一生は、孤児救済に捧げよう。」と意を決し、これまで6年間学び続けてきた医学書やノートを寺の境内に持ち出し、すべて焼いてしまったのです。

 この時の十次の胸の内には「二人の主人に兼ね仕えることはできない」というイエス様のお言葉があったといいます。医学の道を捨て、孤児救済事業のために専心すると、その結果、十次のもとにいた孤児は20人程度でしたが、半年後には60人に急増します。

 当然の結果として、養育費は今まで以上にかさむようになります。ある日、とうとう米・麦尽きて、夕食はおかゆにせざるを得なくなりました。十次は孤児20人を伴って三友寺本堂裏の墓場に行き、熱い祈りを捧げます。祈り終えて引き揚げると、そこに有力支援者である宣教師ジェイムス・ペティーの妻が、米国からの寄付金31円を携えて来ていたました。米10キロが50銭前後のころ、それは大金です。この事があって、十次は孤児救済の道が神に与えられた道であることをいよいよ確信するに至ります。

孤児院の生活

 石井十次に大きな喜びが訪れました。結婚9年目にして、夫妻の間に待望の子供を授かったのです。十次は、孤児の友となるよう、友子と名付けました。

 実の子を得て、十次の孤児への接し方に変化が現れます。これまで夫妻のことを「先生」、「奥さん」と孤児に呼ばせていましたが、「お父さん」「お母さん」と呼ばせるようになりました。また、公立学校の知育偏重に疑問を感じ、院内に独自の小学校を設け、孤児たちに労働を取り入れた実利教育を目指すようになりました。

 そのころの収容孤児は100人になっており、岡山市に4棟の院舎を持つに至っていました。十次は、子供たちを8組に分け、各組に組長を置き、年下や新入児の面倒をみさせました。起床は午前六時。鐘で合図され、顔を洗ったら裏の墓場で各自祈祷し、女子は室内の掃除や朝食の手伝い、男子は外掃除。朝食後は8時から11時まで勉強。昼食後は職業教育。5時半夕食。6時からは集会で一日の無事を天父に感謝。幼児はただちに床に就き、年長者も8時か9時まで勉強してから就寝、という規則正しい生活でした。

孤児の急増

 1891年、愛知、岐阜県地方を襲った濃尾大地震は死者7200人を出します。地震の報を聞いた十次は、孤児による救世軍を組織し、旗を立てラッパを吹き、県内各地を回って義援金を集めて回りました。それが反響を呼び、警察官の初任給が8円ほどの時代に、900円を超える義援金が集まったのでした。

 もちろん、被災地の孤児の受け入れも進めました。なかなか被災地の人に理解されず、十次がクリスチャンであることもあって、「孤児を連れ去って血を絞っている」などと中傷されもしましたが、そのようなことでめげず、孤児救済を貫き、孤児の数は震災前の100人増、263人になりました。

 孤児院への寄付金も急増しました。宣教師ジェイムス・ペティーがアメリカに広く岡山孤児院の存在を紹介していったことによる海外からの寄付金が大きかったようです。その頃、十次・品子に二女が生まれ、震子と名付けられました。

 1905(明治38)年、東北地方は岩手、宮城、福島三県を中心に大凶作に見舞われました。三県のコメ収穫高は「平年作の1〜3割」と記録されているが、収穫皆無の地域もありました。この大飢饉の中で、女の子の身売りや捨て子が続出したのです。

 このニュースに接し、自ら現地調査に乗り出して惨状を目の当たりにした石井十次は、被災児童らに救済の手を伸ばさせずにはおれませんでした。しかし、それはまったく無謀なことでもありました。日露戦争の戦死者孤児の収容もあって、そうでなくても孤児院の経費はかさむ一方の状況だったのです。

孤児を背負うイエス様の幻を見る

 それにもかかわらず十次が被害児童を無制限に受け入れたのは、それが神様からの命令だと信じていたからです。

 東北地方から孤児受け入れが始まる頃、十次は大病(腸チフス)を患います。闘病は一ヶ月に及びました。この病苦と闘っている時、十次は一つの幻を見るのです。

 イエス様が大きなかごを背負って現れました。そのかごには数百人の子どもがいっぱいに入っています。それなのに後ろに20人ほどの大人がいて、なおも外に残っている200〜300人の子どもを次々とイエス様のかごに中に押し込んでいたのでした。溢れている子どもたちを全部入れ終わると、イエス様は「もう済んだのか」と仰り、静かに立ち上がりました。そして、十次もそのイエス様のかごに手を掛け手伝って運んだ、という幻です。

 十次は、この幻をこのように受け取りました。「自分は大勢の子が次々と来てどうなるか心配しているけれど、『孤児院を背負っているのはお前ではなくキリストだ。お前は、孤児院は狭くてもう子どもを入れることはできないと思っているが、今見たとおりいくらでも入る。お前は心配せずにありたけの力を出してかごの底に手を掛けて手伝いさえすればよい』と黙示をもって教訓を垂れたもうた」のだと。

 実際、十次はもうこれ以上の孤児受け入れは無理だという状況を、何度も神様によって切り開かれて、1200人もの孤児を収容するに至ったのでした。

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