アブラハム物語 25
「神われ笑わしめ給う」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書 4章26-29節
旧約聖書 創世記 21章1-8節
天幕に満ちあふれる喜び
 ついに、アブラハムの天幕に笑いが満ちるときが来ました。

「主は、約束されたとおりサラを顧み、先に語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ」

 これまでアブラハムの物語をお読みしてくる中で、アブラハムの一家からすっかり笑いが消えてしまうような時期が何度もありました。けれども、今、アブラハムの天幕は笑いで溢れています。妻サラは生まれたばかりの嬰児をかいなに優しく包み、「神はわたしに笑いをお与えになった」とほほえんでいます。アブラハムもやはり慈しみに満ちたまなざしをその子に向け、その子をイサク、ヘブライ語で「笑い」と名付けました。

 今日、アブラハムとサラが経験したこの恵みの日の物語から戴くメッセージは、神様は喜びを賜り、私たちの心を笑わせてくださるお方であるということであります。
喪服を着たクリスチャン
 いくつかのことをお話ししたいと思いますが、一つは、喪服を着たクリスチャンではなく、イエス・キリストを着たクリスチャンになりましょうという話であります。

 私が牧師になるための勉強していた頃の話であります。私は真の信仰の姿を熱心に追い求めるあまり、現実の教会やクリスチャンたちのあり方にたいへん厳しい考えをもっていました。私はしばしばそのことを教会で批判的に語りましたし、時には牧師と言い争うこともありました。

 ところがある日、教会の青年会で、何かの拍子に私が笑うと、一人の女の子がとても珍しいものを見たといわんばかりに、「あっ、国府田君が笑った。もう一度笑ってみて」と言ったのです。そこで照れ笑いの一つでもできる人間なら良かったのですが、私は逆に顔をこわばらせてしまうような人間でした。その時から、私は、自分がいつも気むずかしい顔をして、滅多なことでは笑わない人間であるということに気づき、それを問題に感じるようになったのでした。

 やがて、私は、自分の問題が単に気むずかしい顔をしているということだけではなく、もっと根本的なことにあるということが分かるようになりました。それは、私には救いの体験がなかったということであります。もちろん、日々神様のお守りを感謝していましたし、神様が祈りに答えてくださるという経験もありました。しかし、自分の人生を根底から新しくし、神様の子供として生まれ変わらせてくださるというイエス・キリストの救いの体験が欠けていたのです。

 ガラテヤ書4章26-27節にこう書いてあります。

 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」

 洗礼を受けた人は神の子であり、キリストを着ているのだと書いてあります。しかし、言ってみれば、私はイエス・キリストを着たクリスチャンではなく、喪服を着たクリスチャンでした。自分に対しても、他人にも対しても、教会に対しても、世の中に対しても、いつも罪に嘆いていたのです。

 みなさん、神様を愛する人は、神様を悲しませる罪に敏感になり、それを嘆いたり、憎んだりするようになるでありましょう。そのこと自体はとても正常なことですし、大切な感覚なのです。しかし、そこで終わってはいけません。そこで終わってしまったならば、いつも自分を責め、人を責め、罪の悲しみ、悪への憎しみに生きるだけの喪服を着たクリスチャンになってしまうのです。

 しかし、神様は喜びを賜り、笑いを与えてくださるお方です。喪服を着たクリスチャンや悲しみと嘆きに満ちたすべての人々に、イエス・キリストという救いの衣を着せ、深い喜びから溢れてくる笑顔を回復させてくださるお方なのです。

 神われを笑はしめ給う! このことは私にも真実でありました。私は救いを求めて祈り始めました。それが真剣で切実な祈りであったことは申すまでもありません。毎晩、キャンパスの人気のない木立の中を祈りの場所として、そこで1時間、2時間と祈り続けました。何週間か経ちました。私はすでにあらゆる言葉で祈り尽くして来て、もう何を祈っていいのかも分からないところにきていました。

 そして、ひとりの友人に、私の悩みをうち明けたのです。すると彼は、「国府田、天国で一番喜ばれる言葉を知っているか」と言いました。「分からない」と答えると、「ハレルヤだ」というのです。私は深く考えもせず、「そうか、それならハレルヤと祈ってみよう」と言い、祈りの場所に行って「ハレルヤ」と祈り始めました。その瞬間、私は聖霊に満たされ、体の内も外も、神様の大きな愛に包まれ、満たされているのを感じ始めたのです。

 そして、私の心の中に一つのイメージが浮かびました。空の高いところに天国の門が開いており、そこに両手を伸べて私を迎えようとしているイエス様が経っておられるのです。その時、わたしははっきりと分かったのです。今まで私は神様を愛してきたし、愛そうとしてきた。しかし、もっと確かで大切なことは、イエス様が私を愛してくださっていること、生まれたときから今日に至るまで私を愛しくださったし、これらからも天国に入る日まで愛し続けてくださることだ、と分かったのです。

 自分がイエス様に愛されている存在だということが分かったとき、自分だけではなく、すべてのものがイエス様の愛が満ち満ちているものとして見えてきました。それまで、ただただ神様を悲しませるだけの罪深い存在にしか見えなかったこの世の中も、現実の教会も、そして自分自身も、その罪深さにも関わらず、イエス様が十字架にかかってまで愛してくださった愛すべき存在として見えるようになったのです。

 このように物の見方が180度変わる経験しまして、私は喪服を着たクリスチャンから、イエス様に救いの衣を着せられたクリスチャンに変えられたのです。神様は、私に自然な笑顔を取り戻してくださったのでした。
待つということ
 今日のもう一つのお話は、待つと言うことについてです。信仰とは待つことだと言ってもいいくらい、私たちは神様によく待たされるのであります。詩編の中にも「主よ、いつまでなのですか」という祈りの言葉が一度ならず書き記されています。アブラハムとサラは、神様の最初の約束を戴いてからイサクが生まれるまで、実に25年間も待ち続けたのでありました。

 その間、アブラハムとサラはずっと同じ気持ちで待ち続けることができたわけでありません。アブラハムは疑いにかられ、「わが主よ、あなたはいったい何をくださるというのですか。わたしには子供がありません」と、まるで神様を責めるかのように訴えたこともありました。妻サラもまた子供の誕生を告げる御使いたちの言葉を聞いたとき、それを鼻で笑ったと書かれています。

 しかし、神様はサラのこのような不信仰な笑いを、本当に賛美に満ちた笑いに変えてくださったのでした。

 どんなに待たされるとしても、どんなに苦労の日が長く続いても、神様は必ず私たちを笑わせてくださるお方です。今、神の約束を待ち続けている方々は、どうぞ心を強くしてください。「神われを笑はしめ給う」というサラの言葉に勇気づけられ、今もう一度神様を信じましょう。私たちは、決して失望させることのない方を信じて待っているのです。

 待つという時に、私たちがつい忘れてしまいがちな真理は、「いつも主の時である」ということであります。25年間、アブラハムとサラは待ったと言いましたが、その25年間、神様はアブラハムとサラをほったらかしにしておられたのではありません。25年間目にして、やっと神の時が来たのではないのです。25年間、いつも主の時ったのです。イエス様は、このことを「成長する種の喩え」をもって教えておられます。

 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 人は種を蒔き、水をやりますが、成長させてくださるのは神であると、イエス様は仰っておられます。そして、その成長には、「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」と、イエス様が仰っておられますように、神様のスケジュールというものがあります。人はそれを無理矢理いそがせることはできないのです。その代わり、その間、人が知ろうが知るまいが、寝てようが起きていようが、種は神様のスケジュールに従って芽を出し、茎を出し、穂をつけ、実を結び、その実が熟し、刈り入れの時が来ることになるというのです。

 刈り入れの時だけが、神の時なのではありません。人が知ろうと知るまいと、寝ていようと起きていようと、いつも主の時なのです。神様の約束もそうです。「主よ、いつまでのなのですか」と待ちくたびれて祈っている時も、主の時なのです。

 どうぞ、このような神の知恵と神の時というものを、信頼して待ち続ける者になりたいと願います。聖書はこのような励ましの言葉もあります。詩編126篇です。

 涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は、
 束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。

 待つということは、苦労に満ちた辛い時をじっと耐えて過ごすことです。しかし、あなたの流した涙は喜びの歌に変わり、背負った重荷は、収穫の山に変わる日が来ます。「神われを笑はしめ給う」そのことを信じましょう。
笑いは人を幸せにする
 最後に、笑いは人を幸せにするということを話したいと思います。神様から喜びを賜ったとき、サラは「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」と、神様を賛美したと言われています。神様が与えてくださったこの喜び、この笑いは、自分だけではなく多くの人をも幸せにするでしょうと言っているのです。

 こんな文章を読んだことがあります。

 ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが、
 相手にとっては非常な価値を持つ。
 ほほえまれた者を豊かにしながら、ほほえんだ人は何も失わない。
 瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまる。
 お金があっても、ほほえみなしには貧しく、
 貧しくても、ほほえみのある家は豊かだ。
 ほほえみは、家庭に平和を生み出し、社会を明るく善意に満ちたものにし、
 二人の間に友情をはぐくむ。
 疲れた者には休息を与え、失望する者には光となり、
 いろいろな心配に思い病んでいる人には解毒剤の役割を果たす。
 しかも買うことができないもの
 頼んで得られないもの
 借りられもしない代わりに盗まれないもの
 もし、あなたが誰かに期待したほほえみが得られないなら、
 不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい。
 実際、ほほえみを忘れた人ほど、
 それを必要としている人はいないのだから。

 「ほほえみ」は人を豊かにする、家庭を平和にする、明るい善意に満ちた社会をつくる、疲れた者の休息となる、思い悩む人の解毒剤となる・・・本当にその通りではないでしょうか。

 しかし、大切なことは、「不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい」という言葉だと思うのです。おもしろいから笑う、幸せだからほほえむというだけでは、何も変わりません。しかし、不愉快な時、辛いときにも、自分のことで精一杯の時にも、人にほほえみかけることができるとしたら、人間関係も、世の中も変わるのではないでしょうか。

 神われを笑はしめ給う! それは、私たちがどのような時にも、神様の恵みを見いださせてくださるということでもあると思うのです。たとえば、苦しみや悩みの時にさえも何かしらその意味や価値を見いださせてくださり、感謝の心や前向きな心を与えてくださり、人にほほえみかける力を持つことができるということではないでしょうか。そして、そのようなほほえみひとつで、隣人と神様の恵みを分かち合うことができるのです。

 みなさん、神様から笑いを、ほほえみをいただこうではありませんか。そして、ほほえみをもって、神様の愛を伝えていきましょう。
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