アブラハム物語 07
「命の豊かさは所有の豊かさではない」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書12章13-21節
旧約聖書 創世記13章1-9節
ロトとの別れ
 今回は創世記13章ですが、ここにはちょっと残念な話が書かれています。アブラハムにはずっと一緒に旅をしてたロトという甥っ子がいたのですが、トラブルが重なりまして、どうしても一緒にやっていけなくなってしまうのです。アブラハムはロトに言います。「わたしたちは親類同士だからいつまでも争っているのはよくない。ここで分かれて、別々に住もうではないか」ロトもこの提案に賛成しました。それで、とうとう二人は別れることになってしまったという話なのです。 
富の不確かさ
 さて、2節に「アブラムは非常に多くの家畜や金銀をもっていた」とあります。また、5節をみますと「ロトもまた、羊や牛の群を飼い、たくさんの天幕を持っていた」とあります。一見すると、二人はたいへん幸せのように思えるのです。

 ところが実際はそうではありませんでした。7節をみますと、「アブラムの家畜を飼うものたちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた」とあります。豊かな財産は、二人の間のトラブルとなるばかりで、かえって今までのような平和な暮らしができなくなってしまったというのです。6節にはこう書いてあります。「彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである」

 こうしてみますと、「お金はあればあるほどいい。余っても困らない」と申しますが、果たして本当にそうなのかと考えなくてはならないと思うのです。本当のことを言えば、財産というのは、なくても悩みがありますけれども、あっても悩みがあるのです。

 そのことを気づいた人が、旧約聖書の『箴言』というところで、こういう祈りをしております。箴言30章7節以下

 二つのことをあなたに願います。
 わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
 むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。
 貧しくもせず、金持ちにもせず
 わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。
 飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。
 貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。

 「私は、人生のうちで二つのことをあなたに祈ります」と言いうのです。その一つは、正直でいさせてくださいということです。そして、もう一つは、貧しくもせず、金持ちにもしないでくださいということです。それは、金持ちになって、神様への感謝を忘れても困るし、貧乏をして、盗みを働くようになっても困るからですと、祈っているわけです。

 私たちは、なかなかこういうお祈りができないのです。ああしてください、こうしてくださいと、つい欲張ったお祈りをしてしまいます。それは意地が汚いということもあるのかもしれませんが、そうでない場合は心配のし過ぎということがあるのだと思うのです。

 もし、イエス様が言われたように、明日のことを少しも思い煩わないで、天の父なる神様を信頼し、委ねきって生きることができるならば、私たちの祈りは「日毎の糧を今日も与え給え」という祈りだけで、十分なはずではないでしょうか。「主はわが牧者なり」それだけで十分なのではないでしょうか。それでは足りないというならば、その人は物に不足しているのではなく、恵み豊かな神を信じる信仰に不足しているのです。

 聖書はこのように教えてくれます。「たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように」(Tテモテ6章17節)

 言い方を変えれば、この世の財産を信じるよりも、神様を信じた方がずっと確かで安心に満ちた人生を送ることができるということなのです。
愚かな金持ちの譬え
 今回は、アブラハムの話に合わせて、イエス様の「愚かな金持ち」というたとえ話をみてみたいと思います。ある金持ちの畑がたいへんな豊作になりました。金持ちは、「倉が小さすぎて、とれた作物をしまっておく場所がない。どうしよう」と悩みます。そして、「そうだ、小さい倉を壊して、大きな倉に立て直そう」と思いつき、「さあ、これで、これから先何年も遊んで暮らせるだけの蓄えができるぞ」と喜ぶのです。ところが、その晩、神様はその金持ちにこう言われました。「愚か者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。そうしたら、お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」

 イエス様は、このたとえ話で二つのことを教えておられます。一つは、「有り余るほどの財産をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできない」ということです。これは文語で読むとよりはっきりとします。「人の生命は所有の豊かなるには因らぬなり」ということなのです。たくさんのものを持っているからと言って、その人の人生が豊かであるわけではないということです。

 では、本当の意味で豊かに生きるためにはどうしたら良いのでしょうか。イエス様は、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と言われました。豊かに生きたいならば、財産を貯えるよりも、むしろ財産を用いて、神様に豊かに愛され、信頼され、用いられる人間になりなさいということなのです。
人の生命は・・・
 まず、「人の生命は所有の豊かなるには因らぬなり」ということを考えてみましょう。世の多くの人たちは、お金や財産はあればあるほど良い、あればあるほど安心である、と考えているようです。それに対して、聖書は、お金や財産を多く持ちすぎていると、かえって私たちの心を貧しくすることがありますよ、大切なものを失うことがありますよ、お金や財産にはそういう誘惑がありますよ、と警告しているのです。

 アブラハムとロトの話も、そういう警告の一つなのではないでしょうか。「財産が多すぎたために、一緒に住むことができなくなってしまった」とあります。二人は、多くの財産を持っていました。しかし、そのために非常に大切なものを失ってしまったのです。それは旅の仲間、人生の伴侶です。

 人と人が手を取り合って一緒に生きていくということは、一人の人間としても、人間社会においても、本当に大切なことです。そして、この大切なことを守っていくために必要なことは、豊かさを持つことではなく、実は貧しさを持つことではないかと、私は思います。

 インドのカルカッタで、貧しい人の中の最も貧しい人たちに神のご奉仕をしたマザー・テレサに、こういう話があります。

 ある夜のこと、一人の男性がマザー・テレサを訪ねてきて、「八人の子持ちのヒンズー教徒の家族が、このところ何も食べていません。食べるものがないのです」と、助けを求めてきました。それを聞いて、マザー・テレサは、すぐに一食に十分なお米を持ってその家を訪ねたのです。そこには、目だけが飛び出している子供たちの飢えた顔があり、それを見ただけでこの家族がどれほど深刻な貧しさの中にあるかということが分かりました。マザー・テレサは、さっそく持ってきたお米をお母さんに手渡します。すると、お母さんは何を思ったか、そのお米を半分に分けるのです。そして、その半分をもって、家から出ていったのでした。

 しばらくしてお母さんが戻ってきたので、マザー・テレサは、「どこへ行っていたのですか、何をしてきたのですか」と尋ねたそうです。すると、「彼らもお腹をすかしているのです」という答えが、お母さんから返ってきました。「彼ら」というのは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことだったのです。そこにも同じく八人の子供がいて、やはり食べるものがなかったのでした。この母親はそのことを知っていて、僅かの米の一部を他人と分け合うあったのです。

 私が、この話に心を打たれるのは、自分の家族がおかれている状況にもかかわらず、僅かの米を隣人と分け合ったということです。また、宗教が違うとか、人種が違うとか、そんなことも何の妨げにもならず、隣人として助け合ったということなのです。

 豊かな人の間では、なかなかこういうことは見られないのではないでしょうか。また、強い人の間でも、なかなか見られないことではないでしょうか。そういう人は、「宗教が違う」「意見が違う」と争ったり、「自分のことで精一杯だ」「人の面倒まで見ていられない」と個人主義やマイホーム主義に陥っているのです。そういうところから、隣人を愛し、助け合い、支え合って生きようとする考えは生まれてこないのです。

 弱く、貧しく、助けを必要としている人であればこそ、友の大切さを知り、助け合い、支え合うことの喜びを知ることができます。だから、共に生きるために必要なことは、豊かさではなく、貧しさを持つことだと思うのです。そこから、お互い必要とし合い、尊び合うということが起こってきて、一緒に生きる人間になるのです。しかし、豊かで、強く、自信に満ちあふれた人間というのは、しばしばそういう大切なものを失ってしまうということではないでしょうか。
神の前に豊かな人間になれ
 それなら、財産を持つというのは悪いことなのでしょうか。決して、そうではありません。しかし、みなさんは財産というものは、貯めるものであり、築くものであり、守るものだと思っていないでしょうか。イエス様はそうは仰いませんでした。財産は倉にたくわえておくものではなく、神様のために、愛のために用いるものだと教えられるのです。そうすることによって、神様の前に豊かな人間、つまり神様に豊かに愛され、信頼され、用いられる人間になるのです。

 イエス様の教えに、こういうたとえ話があります。ある主人が長い旅に出ることになりまして、財産を三人の僕たちにあずけるのです。一人の僕には5タラントン、もう一人には2タラントン、三人目には1タラントンを預けました。5タラントンを預かった僕と、2タラントンを与った僕は、そのお金を元手にして商売をしまして、それぞれ倍に増やして主人に返しました。それで、主人はたいへんこの僕たちを喜び、今まで以上に信用するのです。

 ところが、1タラントンを与った僕は、他の僕たちとは違った考え方をしました。与ったタラントンを盗まれないように土の中に埋めておいたのです。主人は怒り、「土の中に埋めておぐらいなら、銀行にあずけた方がよかった。そうすれば利子がつくのだから」と言って、この僕からタラントンをとりあげ、解雇してしまいました。

 このたとえ話から、英語の「タレント」という言葉ができました。神様から与えられた才能をいう言葉です。財産というのは、お金のことばかりではなく、そういう生まれながらの能力なども考えなくてはなりません。それは持っていているだけでは意味がありません。用いてこそ、神様の栄光にもなりますし、人を助けることもできますし、私たちもそれを喜ぶことができるのです。

 もう一つ、たいへんユニークなイエス様のたとえ話があります。主人の財産を管理している僕の話であります。実は、この僕はしばしばお金をごまかして、無駄遣いをしたり、私腹を肥やしていたのです。ところがある日、主人にそのことを告げ口をする者がありました。そこで主人は真相を確かめるために、財産の管理をしている僕を呼びまして、きちんとした会計報告を提出するように言いつけたのです。この僕は、不正がばれてしまったことを悟り、あせりました。そして、自分は土方のような力仕事は向かないし、物乞いをするのも恥ずかしい。いったい、どうしようかと悩むのです。

 この僕が、はたとひらめいたのは、「自分がまだ主人の財産管理をしているうちに、主人に借金のある人の借金を割引いてや恩を売っておこう。そうすれば、主人から追い出されたとき、その人たちが私を助けてくれるだろう」ということでした。そこで、彼は主人に借金のある人を一人一人呼んで、その証文を書き換えてやりました。「油100バトス」と書いてあったら「油50バトス」と書き換え、「小麦100コロス」と書いてあったら「小麦80コロス」と書き換えたのです。

 驚くべきことに、イエス様は、「この不正な管理人のやり方をみならいなさい」と言われました。そして、「不正にまみれた富で友達を作りなさい、そうすれば金がなくなったとき、あなたがたは自分を助けてくれる友を持つことになります」と言われたのでした。とても、イエス様らしからぬ教えで戸惑うのですが、ここでもイエス様は財産を自分のためにとっておくことではなく、財産を人のために用いるということによって、友達ができ、あなたは大切なものを得ることができるようになるのだということを教えられたわけです。

 アブラハムとロトは、「財産が多すぎて、一緒に住むことができなかった」とありました。財産そのものが悪いのではありません。お互いに財産を守ろうとすることばかりを考えたために、争いが起こり、一緒に住むことができなくなったのでした。財産というのは貯めたり、守ったりするものではなく、用いるべきものなのです。

 今回は、「命の豊かさは所有の豊かさではない」という説教題をつけました。持っているだけは意味がないのです。もし、私たちが財産であれ、才能であれ、体力であれ、知力であれ、何かしら豊かで強いものがあるとするならば、神様の賜物に違いありません。どうぞ、それは神様のために、愛のために精一杯お用いください。そうすれば、私たちは地上に宝を積むことはできないかもしれませんが、天に宝を積むことになるのです。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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